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イエス・キリストの道

イエス・キリスト、霊性、そして地球:
「イエス・キリストの道」は、人類の意識及び人類と地球の変化へのキリストの貢献について、数多くの調査研究と経験分野からの新しい見方に基づき、独自の情報を提供するぺージです。個人の人格的成長のための実践的なヒントもあります。

日本語

これは日本語使用者のための特別抄訳版(抜粋)です。

キリスト教と神道(神の道)の関係に関する情報

イエス・キリストと仏教に関する情報

神と再びつながるための宗教−イエスと共に歩む

福音書と黙示録に示されたキリストの道について、より包括的な文献を掲載しています。また、より幅広いトピック*各国語に翻訳して掲載しています。特に英語のウェブサイトは、頻繁に更新されます。

 

ホームページに入るにはこちらから  http://www.ways-of-christ.com/ja

 

各国語に翻訳されている主要文献には以下の各章があります。1. 第一部の内容:本文献の目的と使用のための導入瞑想などへの使用法のヒントを含む;「初めに言(ギリシャ語で logosがあった……そして言は肉体となり」;ナザレのイエス、その誕生、及びキリスト教徒の再生についての更なる考察;イエスの少年期に重要な出来事があったのか?;「二人の少年イエス」に関する議論への追考;洗礼者ヨハネによるヨルダン川での洗礼、及び今日の洗礼に関する更なる考察;荒野の静寂;試み;カナの婚礼;(性愛、同情、共感、愛に関する考察);「神の熱意」(及び感情に関する考察);山上の説教と心に関する考察;タボル山上のキリストの変容;「奇跡」の探究;ラザロの復活;「羊」;「足を洗う」キリストとイエスに香油を塗るベタニアのマリアキリスト教徒の霊性にとって重要なポイント;最後の晩餐、逮捕、鞭打ち;荊の冠と最後の説教;十字架の死と埋葬(キリスト教神秘主義の見方も含めて);空の墓について、及び「地獄へ堕ちること」「天国へ昇ること」に関する探究;キリストの復活;キリストの昇天;精霊降臨(ペンテコステ);キリストの肖像に関する一言。2. 第二部の内容:ヨハネの黙示録;預言をどう扱うか;ヨハネの黙示録の内容−7つの教会、今日の各地の教会、教会間の相違、超教派への道についての考察を含む;「7つの封印」;「7つのラッパ」;「7つの雷」と二人の預言者;女と竜;海から上がった「7つの頭を持つ獣」;地中から上がった「二本の角がある獣」;「 7つの鉢に盛られた神の怒り」と「バビロンの終焉」;(本当の)「千年の平和」;「新 しい天」「新しい地」「新しいエルサレム」「最後の七つの災い」;「バビロンの終焉」;「キリストの再来」;最終章:キリスト教徒の姿勢;表:キリスト教徒の姿勢−世からでなく世の中で;表示品質、ドイツ語印刷版、著 作権に関する一言;Eメール送信用紙。3:その他のテーマ:平和、人生、地上のための祈り;倫理的価値の基盤;現代の「イエスについてなにもかも暴露しよう式の話」の誤りを正す;イエスと栄養学に関する問い;自然科学と信仰;イエスと癒し− 現代においても;神の祝福;経済および社会的問題に対するキリスト教的見解;社会および政治に対するキリスト教的見解;哲学とキリスト教 ハーバーマスの「信仰と知識」講演に対するコメント;エコロジーと創世、まだ生まれていない生命;このページとキリスト教神学の方向;キリスト教における瞑想;インスピレーションと教会;死後の命に関する問題と人生におけるその意味;キリスト教と、「運命」および「輪廻転生」に関する教義に対するその姿勢;4旧約聖書とほかの宗教との対話に関する貢献:旧約聖書、ユダヤ教徒イエス・キリスト;イエスとイスラム;仏教;ツァラトゥストラの宗教(ゾロアスター教)、ヒンドゥー教、道教、儒教、神道、自然崇拝;人間と神との「再結合」としての宗教

奥書:著作権 , へEメールを送る


 日本語訳聖書

 

キリストの道

キリスト教と神道(神の道)の関係に関する情報
及び自然宗教に関する一般的見解

 他の宗教に関する補足のページは、異なる宗教間の理解と対話の促進に貢献することを企図しています。キリスト教に関する部分は、古くからの霊的な深みに関する研究や、最近の宗教的意識の調査など、独自の研究に基づいています。日本古来の宗教である神道(神の道)については、包括的な記述はできませんが、本稿の目的に沿って重要な見解を述べます。

神道は元々自然宗教の一つであり、自然宗教は世界中のあらゆるところで互いに関連しており、また、仏教やキリスト教のようなよく知られた世界宗教よりも、古い宗教です。

 

  自然宗教

自然宗教の起源は、人類が、今日の知に支配された意識とは異なる意識を持っていた頃に遡ります。「Ursprung und Gegenwart」(「起源と現代」の意、ドイツ語で出版)の著者であるジャン・ゲブサーは、このレベルの意識を「神話的意識」と呼びました。意識に関する研究者であり「The origin of Consciousness」(「意識の起源」の意、英語、ドイツ語で出版)の著者であるジュリアン・ジェインズは、「二院性の意識」と名づけ、右脳左脳間の直接のコミュニケーションがより多く行われる状態であるとしました*。右脳が、自然などあらゆる物の外観について、「生ける物」として、より全人的に知覚することを可能にしていました。一方、左脳の情報処理の仕方により、人々は生ける物の「声」を聞くことができました。ヨーロッパの精霊や妖精物語の登場人物は、このような意識から出てきたものであり、単なる幻想ではありません。このような古代の知覚方法は、読み書きが伝播して口承伝説に取って変わる中で消えていきました。ヨーロッパと中東では、紀元前500年ごろまでには、古代の知覚方法は社会的な重要性を失っていました**。また、神話時代の先祖達は、しばしば、地元の、あるいは自民族の精霊、先祖、神などを崇拝していたのですが、異文化の交わりが始まると、自文化のみに根ざした古い時代の意識では、間違いなく処世をすることができなくなりました。神話的知覚は間違いの元となることがあり、有用でなくなってきたということも、この種の意識の廃れる過程を促進しました。

この段階の意識について、より近年の知に基づいた意識の方が価値が高いとし、古代の知覚の産物は今日では無効であると考えるのは正しくありません。この過程で、新しい能力が獲得され、古くからの能力が失われたのは事実ですが、古くからの能力は知で代用することはできないものです。しかし、新しい分析的思考を維持しながら、より古い埋められた想像的合成の能力を意識的に引き戻すことは可能です。その方法としては、瞑想などが考えられます。このようにして新旧の統合された意識が芽生えることは可能であり、これにより、右脳と左脳の調和に至ることができます。今日の多くの問題が知的解決の限界を超えています。環境問題の真の複雑性を、知的レベルだけで、理解し解決することは、明らかに不可能です。ドゥーマー(Dörner)は、まだ間に合ううちに、環境問題を理解し解決するには、「多要素の意識」(multifactorial consciousness)が必要だといいました。彼が調査した学生のほとんどが、このような意識が欠如していました。今日、人類は、神話的意識という古い意識をただ復活させるということではなく、知以前の伝承からインスピレーションを得ることができます。ですから、妖精物語は今日の子供たちにとっても、価値あるものです。なぜなら、幼少期における右脳機能の萎縮を食い止める働きをするからです。

原始キリスト教では「聖霊の賜物」が重要な役割を演じました。(ヨハネ書16章、コリント書127-11節、使途行伝217-20節など。また、英語他の言語で、主要文献の中の「精霊降臨(ペンテコステ)」の章もご覧ください。)「聖霊」は神の力であり、人間の創造力を、人間業を超えるものにすることも可能にします。霊というものは単なる右脳の活動ではありませんが、右脳機能を使います。しかし、「聖霊」はイエス・キリストの文脈で現れます。イエス自身が弟子達に「風(霊)は思いのままに吹く。」と言っていますが、もし、イエス・キリストに波長を合わせて待っていなければ、その人はイエスが預言した「聖霊」の降臨を経験したことを、どのようにして知ることができるでしょうか。

  神道

神道あるいは神の道とは「(天界または尊ぶべき)霊の道」という意味です。私達は他の「多神教」も調査しましたが、これらが大元となる一神を崇めるところに始まり、その神の性質の一つ一つを後に別々に神格化して崇拝するようになったのとは異なり、神道に関しては、大元の一神というような起源は見つかりません。他の民族の天地創造神話は、天と地(及び黄泉の国)の創造から始まりますが、日本の創造神話は天地を既にあるものとして始まります。その天地の中に忽然と神々が現れ三界のすべてに住まいます。地には人間達が住んでおり、黄泉の国にも多くの死者や魔物が住んでいます。また尊ぶべき祖先も日本の神の国に加わります。巨大な神の国の最上位には、太陽の女神アマテラスが君臨していますが、この女神はすべての創造者としては扱われておらず、神々の会議が命じてイザナギとイザナミという神に創造させた女神なのです。

神道の神格崇拝は、家庭あるいは神社(仏閣)で行われ、規定の祈り(感謝と願い事)を唱え、米、酒を供えます。また、以前は本物の動物も供え物として捧げていましたが、現在は動物を象徴するものを代わりに供えています。

神道は国家と天皇を頂点とする新興宗教と融合させられましたが、この思想は第二次世界大戦後、公式には破棄させられました。

自然宗教では特殊な知識と媒体能力を有するシャーマンが中心的役割を果たしますが、神道では、神官が指導者となっています。

倫理上の教義については、罪の一覧があって、他の宗教との接触の中から、倫理原則も発展しました。これは世界宗教のすべてに見られることです。

日本では、ヨーロッパのような異なる宗教間での隔たりがありません。多くの日本人が、複数の宗教組織・団体の構成員です。

*ジェインズ自身は、この古い脳の機能が、神のあるいは自然の力を体験したという寓話の説明として充分であるかのような印象を与える説明をしました。私達の研究では、これは正しくないと考えます。ジェインズの発見した機能は、知覚された存在が「何者であるか」について、答えを与えるものではありません。「神々」も神も脳の中には見つかりません。これは特殊なレベルの何らかの実在であって、脳はそれを何らかの形で解釈する働きをするだけです。ジェインズによって示された神話的知覚の時代の人間には、現代の意識ができるような神格を想像力で描き出すことが出来なかったのです。同様に、霊的な夢あるいは瞑想時の体験というものも、日常生活を消化する過程というだけでは説明のできない何か別のものを反映していることがあります。

**ヨーロッパではホメーロスの叙事詩が作られた時代は神話時代ですが、少し後のギリシャの哲学者が、早くも知的意識の台頭を示しています。

 

キリストの道

補足ページ:

イエス・キリストと仏教に関する情報

他の宗教に関する補足のページは、異なる宗教間の理解と対話の促進に貢献することを企図しています。ここでは、それぞれに霊的に深い意識を持っている、仏教各派とキリスト教各派の共通点と相違について述べます。このため、ブッダの生涯と教え(紀元前500年頃)については、詳細は述べません*)。重要な点について重点的に検討することとします。

ブッダの本来の教え―これは現在でも小乗仏教がその基本としているものです―は、自分の本質でないものすべてから、自分をできるだけ解き放つことです。感覚や心が欲し、それにより苦しみをもたらすことになる欲求は、「我に非ず(アナートマン)」と認識され、最終的には消滅し、それにより人は涅槃(ニルヴァナ)に至ります。この状態は、瞑想などの修行と訓練により身に付けた生活の仕方により達成することができます。後に興る大乗仏教は、世界から引きこもる代わりにすべての生ける者への共感を教えるなどの道を進みましたが、「非我」の概念をしばしば誤解して伝えました。大乗仏教は、人が程度の低い自己中心的な性質を捨てると、「我」が全く残らないかのように解釈したのです。従って涅槃のことも「無」であると解釈しがちです。しかし、ブッダ自身、彼の最も高いレベルの経験(第九段階)についてこう述べています。「そして私は……時の流れの中の、『知覚があるでもなく無知覚でもない』ところの惨めさを(また)見通した。すべてが私に明らかになった。そして、(私は)知覚と感性を捨てたところの至福の中に身を入れた。その至福に満たされた。……その時から、『知覚があるでもなく無知覚でもない』状態を完全に取り去った後、『知覚と感性を捨てたところ』の至福を私は達成しそこに留まる。そして知によってこれをすべて認識した後、その効果は薄れた。」(アングッターラ・ニカーヤ経第941

ご存知の通り、イエス・キリストも、人々に自分の性質を浄化し、他を批判するよりも前に自分自身から始めなさいと教えました。(Ways of Christ  の主要文献を参照ください。)また、キリストは彼自身と弟子達について、世界または世俗的な活動と同化せず、世界には所属しない者と説明し、パン種のように世界を変革するために世の中で生き働く者(ヨハネ書17章)と説明しました。これは、原始仏教よりも更に明確な説明です。

このように、イエスとブッダが残した人生に関する言葉は、非常に多くの共通性を示しており、何十年か前から、イエスは仏教を教えたのだという考え方も出てきました。しかし、これは正しくありません。そういうことなら、別のやはり古い宗教の一つを捉えて、イエスはその宗教を教えたのだと主張することもできるでしょう。本サイト上の文献で、このような部分的一致は、霊的真実を見通すことが出来るものなら誰でも同様に知覚し、互いの言を模倣しなくても理解することができる、霊的真実の共通性からくるものであることを説明しています。これが、物質文明に根ざした自己中心的な社会と比較するとき、宗教の強みなのです。宗教はこの強みをもっと活かすべきなのです。しかし、宗教間の共通性や関連性は、それぞれが独自の部分的に異なる道を取っているという事実を変えるものではありません。

また、ユダヤ教、キリスト教、及びイスラム教では、人が浄化するべき性質について、に対する罪との関連でも語られます。これは一面では宗教的倫理規則を守ることになりますが、より根本的なところでは、私達を神から遠ざけるすべての性質に関わることです。多くの仏教徒自身が認識していると思いますが、仏教では神は存在しないと考えるという認識が一般的です。ですから、宗教が共通して唱える倫理観は、すべての宗教が認める物理的な生を超えた「最後の真実」―その意味するところは一つ一つの宗教により異なりますが―に関するものなのです。これは、少なくとも完全に正しいとは言えません。ブッダ自身が神は存在しないと言い切ったことはありません。彼の生涯の中では、ブッダは人の道に関する彼の認識について語るに留めたのです。ヒンズー教の導師にヒンズー教の創造神であるブラフマ神について質問されたとき、ブッダはこう答えました。「私はブラフマをよく知っている。ブラフマの世界も、ブラフマの世界へ至る道も、そして、ブラフマがどのようにブラフマの世界に至ったのかも、私はよく知っている。」(ディーガ・ニカーヤ、第十三話、これはヒンズー経典を知っているという単純な意味ではなく、霊的経験について語っているのです。)ヒンズー教のブラフマはイエス・キリストが教えた父なる神と単純に同等とすることはできません。ブラフマは、神を人格化して語るときに表される神格の一面のみであり、歴史上異なる文化圏で、形を変えて出てきています。いずれにしろ、ブラフマは否定的な力に付けられた名前ではありません。

福音書と黙示録は「父」が創造の初めであり、終わりであり(アルファでありオメガであり)、創造物とその性質よりも上に位置する者、キリストよりも前には到達することが出来なかった者であると説明しています。ヤコブ・ボエムのようなキリスト教神秘主義者は、彼ら自身の体験から、この神は単に物理世界の創造より上にあるのみならず、至上よりも上、「最初の天上の創造」よりも上に位置すると述べました**)。宗教と宗教を比較することを目的としたより科学的な文献は、深い霊的経験を含むもの以外あまり参考になりません***)。霊的体験なしには、双方が理解できる言葉を見つけることすら不可能です。

仏教の道は、彼岸の彼岸、「涅槃」へ入る道です。「涅槃」は、多くの仏教徒が「遠く」であると考えるもので、多くのキリスト教徒が神との神秘的融合が「遠い」と感じるのと同じです****)。しかし、仏教はボディサットヴァ(菩薩)という「輪廻を解脱した者」が、自らの意思で人類を救済するために現れる可能性を教えています。

キリストは父のところに昇り(「墓が空になっていた」−キリストの復活と昇天)、再来を約束しました。キリストとキリストの道により、今日でも、すべてを超越した最高位の神の領域から最下位の物質的レベルまで貫く働きが可能なのです。

ここでルドルフ・シュタイナーにも言及しておきましょう。シュタイナーは、ブッダが愛の知恵について教え、その後キリストは愛の力をもたらした、と言いました。ここではブッタを道を開いた者と捉えているのです。何が真実なのか知りたい人は、求道の結果、キリスト、かつ・または、ブッダに本当に出会ったときに、ご本人に聞いてみてください!

「カラマ・スートラ」で、ブッダは「伝聞や…伝統や…その時代の意見や…聖典の権威や…単なる理性と論理の帰結や、架空の理論や好ましい見解や…個人的に利益を得られるという印象や…師の権威などに導かれてはなりません。しかし、あなたがあなた自身を認識するなら…」と言っています。

*) 今日まで伝承されているブッダ自身の教えは、K.E.Neumann 翻訳による、Die Reden des Buddha: mittlere Sammlung(「ブッダの教え」抄訳、ドイツ語、恐らく英語版もあります)、及び längere Sammlung(完訳)に載っています。

**) 神智学的立場から本サイトを利用する方へ:神智学用語では、厳密に言うと、涅槃(ニルヴァナ)あるいは我(アートマン)は般涅槃的(paranirvanic)及び大般涅槃理性的(mahaparanirvanic, logoic)な神のレベルより下に位置します。

***) キリスト教神秘主義者のエッケハートは涅槃のような体験について書いていますが、彼の場合は、涅槃という言葉を使用せず、神との出会いという文脈で記しています。

****) 世俗世界を通る道の果てに人の本質が神に還るということは、一方では悠久の時に常に存在していたものへ帰還することですが、他方では、それ以上の、以前に存在しなかった何かでもあります。これは二つの合同三角形のようなものです。この矛盾は、深い神秘体験によってのみ理解することができるのです。

 

キリストの道

 人が神と「再びつながる」ための宗教1)―イエス・キリストと共に歩む
1) Religion (宗教)の語源はラテン語の re-ligio であり、その意味は、re-uniting (再会)です。神との再会は、私達の「核」との再会です。同様に、より大きなスケールで、神のあり方をホログラムで映し出したような現世を実現することができるのです。

 人間の一生に於ける、より深遠な問題の認識

肉体を癒すという以上の変化について、イエスが聞く最初の質問は「よくなりたいか?」(ヨハネ5:6)でしょう。これは言い換えれば、神に近づきたいなら、変えなければならない不完全な部分を自分が持っていることを知っているか?です。人生の当たり前の出来事の中に、宗教とは関係の無い中心的な一本の筋が通っていることは、よくあります。子供は大人になる過程で新しい能力を身に付けます。一方で、元々持っていた物事を高い密度で経験する能力は潜伏してしまいます。大人になってから、この自然の能力を回復しようとするかもしれません。この場合、後天的な能力も維持され、その人の硬化した部分は和らぎ、あるいは消し去られることもあります。「こころ」に弱い手がかりを残すのみで、知的な部分と本能的な部分が分離し、精神と人生が乖離していたところが、再び統合されます。この乖離はエデンの園の神話に出てくる「知恵の木の実を食べる」行為の一つの意味だと言えます。また、イエスが言った「だれでも幼な子のうに神の国を受け入れる者でなければ、そこにはいることは決してできない」(マタイ18:1-3、 マルコ10:15、 ルカ18:17)という言葉は、変革と帰還の可能性を深く理解しているからこそ、言われたものです。これは、子供の天真爛漫さについて言うのみならず、人間の発達の基本である、「原型」2のパターンについて言うものであり、人間の在り方の中で失われた部分について述べているのです。このような在り方は、今日の知のみに頼る限定的な意識の及ばない高みに歩を進めることを可能にします。

2) 「原型」とは、C.G.ユング他の深層心理学者が使用する言葉で、夢など様々な形で経験される人間存在の基本的なパターンです。 しかし、そうした「原型」の中には、いろいろなものがかなり混じり込んだ、誤解を招きかねない内容のものが入り込んでいた。「神」が老人のように描き出され、「天」と「地獄」は「集団的無意識」の「原型的象徴」 とされていた。それが明確にどのようなものを指すのかについては、ユングは知ってはいなかった。このような意識のレベルの芯には、人間に浸透しているイメージや観念が深く入り込んでいて、こうした芯は少なくとも誰にでも共通して存在しているようだ。ということは、これは「神話的意識」と呼ばれる時代よりもさらに以前にさかのぼる、太古の昔から人類に備わっている原始的記憶から発しているのだ (...)。この意識のレベルには、人間が人生の中で経験していく、部分的に見せかけに過ぎない対立が含まれている (...)。深く考えてみれば、このようなレベルにおける神のイメージなど、神を戯画化した、きわめて問題の多いものだ (...)。メルヘン、おとぎ話はこうして象徴的世界とクリエイティブに接しようと試みてきたわけだし、それは子供たちにとっては意味のあることだ。しかし大人は、このように人間的な側面をたくさん抱えてしまったこれらの象徴を、通り越していかなければならない。真に求められるのは、神に間違ったイメージを与えることなく、直接神を探し求めることだからだ。

これは、人が自分の情熱だけでこのような変革を管理できるということではありません。イエスは、この過程をマスターするための現実的な道と力と慈悲を与えているのです。真実を探究するキリスト教徒、キリスト教神秘主義者、キリスト教錬金術師は、より完成した人格を目指し彼らの道を見出しました(マタイ5:48、ヨハネ10:38をご参照ください。)他の多くのキリスト教徒が、意識的に、あるいは無意識的に、同様な経験をします。自己内省的に進んでいるか、信仰を社会生活に生かそうとしているか、私達が「全面的なキリスト教」と呼ぶような、両方を合わせた道を進んでいるかに関わらず、このような体験が起こります。過去数千年間、道教の錬金術師や、一部のヨガの学派3など、他の多くの文化圏でも、この内なる葛藤への解決策が模索されました。

3) インドのヨガの文字通りの意味は「くびきにつなぐ」ということで、源であり永遠であるものに再度結びつくことを模索するということです。このことは、このような他の道が、キリスト教の道と同じ目標に至るはずであるということを意味するものではありません

「人となった神」であるイエス・キリスト、「新しいアダム」は、その時から、隠された元々の性質を人類が取り戻し始め、これまで誤った方向に導かれて、危険なものになりつつあった人類の性質が、再調整される時期になったという印です。地球へ贈られた「ラッキーチャンス」として、イエスは、人生の意味の根源(即ち、神)とのつながりと、高度に発達した人間の意識の両方を表していました。彼は人間の分解の時流に抗しました。他の人々とは異なるレベルの存在でありながら、彼は、人間としてこのことを顕現化させました。ですから、人は皆、同じことを行えるのです。特に、意識的に行えば、なおさらです。歴史的なイエスの存在と彼の復活を知らない人々も、この効果に浴する事ができます。これは、ある島である動物種が何らかの行動を習得すると、共通の力の場に影響を受けた別の島々の同じ種の動物がその行動を遥かに短い時間で習得するという、ルパート・シェルドレイクが発見した現象と似たようなものです。

キリストと神への内的な関係は教会なしでも築くことができます。しかし、適切なキリスト教徒の地域社会があれば有用です。キリストの存在を霊的相談相手、社会改革者などの限定した役割で理解しようとする互いに相矛盾する神学を、最後のよりどころとする必要はありませんが、一つのみでなく複数の神学を知ることにより、理解へのヒントを得ることはできるでしょう。個人は誰でも自分の部屋のプライバシーに守られて、キリストに波長を合わせることができます。最終的には市場の真ん中でもできるようになります。このためには、福音書で伝承されている彼の性質をよく覚えておくとよいでしょう。死を克服して復活したキリストという人格を受け入れる人は、今日も働き続けるキリストの存在に接触することができるでしょう。(キリストのそれとは異なった状態ですが、死後、復活して戻ってきた人々の証言も数多くあります。)神の子キリストを、すべてを包み込んでくれる兄弟のように感じ「キリストの名によって」祈りたいときは、以下のように祈ることもできるでしょう。(ヨハネ15:16、マタイ6:7-15、マタイ18:19-20参照)

私の源、私の助け、私の希望である神よ!
イエス・キリスト*と共にある私は、 あなたから来たるすべてのものについて感謝します。
そして、あなたから遠く離れてしまった私のすべてをお赦しください。**
この静寂の中で、あなたの霊により、私を創造的な者に成らせてください。 ***
あなたの道に近づかせてください。

*) マリア様の名前を入れる習慣の人は、入れてください。それにより人間の男性的な面、女性的な面が共に、神に近づくことになります。
**) ここで、次のような実践方法を加えることもできます。まず、心配、憎しみ、怒り、無関心、驕り、著しい疑念などの否定的な感情を、それが心の中だけで起こったものであれ言葉に表したものであれ、感じたままに見つめます(マタイ5:22参照)。次に、そういう感情を反芻するかわりに、しばらく待って、それが何であるか、よりよく意識できるようにします。3番目に、今はっきりと感じられた問題を祈りの中で神に委ねます。(更に、同様の方法で、自分の全人生を神またはキリストの手に委ねることも可能です。)4番目に、何らかの安らぎが感じられるまで、静かに待ちます。
***) 静寂は、「起きたことを落ち着かせる」働きがあり、それについて対処したり祈ったりする準備となります。そして、新しいものに心が開かれます。

 

この道に於ける倫理の意味

この道における一つの面は、すべての物事より上にある「神を愛し」、「自分愛するように、あなたの隣り人を愛」する(マタイ19:19)ことです。自分を愛することは、自分が他者に負う仕事を見出すための過程の一部でもあります。知を伴った愛はキリストの主たる性質ですから、愛は人とキリストをつなぎます。また、良い行いをして良い効果が得られれば、キリスト教徒の道が明らかになります。イエスは普通「人は、自分の蒔いものを、また刈り取ることになる」(ガラテヤ書6:7)という旧来の倫理の基本に従って行動しましたが、外部の法による規制よりも個人の自己責任を強調しました。ここで、私達は、私達の中にある何か、例えば、良心として感じられるものなどが、霊と調和している部分であり、キリストが彼の生涯を通して範を示したものであることを知るのです。この点は、各人が心で、魂で、あるいは霊のレベルで体験することでしょう。キリストについて知られている性質を自分自身のものとするようにできるだけ努力することにより、直接の霊的接触につながる可能性があります。たとえ、短期間に大きな効果が見られなくても、このような心がけは有用です。

慈悲によって私達の中で成長していく力は、キリストと神から「外因的に」与えられる宇宙の癒しの力をひきつけることになります。ここでもこの体験は個人により様々な形を取るでしょうが、その個人へのそして、個人の存在の周囲へ与える影響は非常に力強いものとなり得ます。このような体験は、以前は「神秘主義者」や「聖者」が体験するものでしたが、今日この「黙示録的な」時代に生きる普通の人々の間に広がるでしょう。このことの重要性には、すぐには気がつかないかもしれませんので、指摘しておかなければなりません。すでに関心を抱いている人々は、この変革の力を受け入れることができるでしょうが、この力との調和を十分に成長させてこなかった人々の心の障壁を、この力が打ち砕くとき、それは痛みを伴って、あたかも「審判」が下ったかのように感じられるかもしれません。

あなたに近づこうとしている他者を害することのないように、私を導いてください。
あなたの意思に従って他者を助けることができるように、私を導いてください。.
私の道を辿る私をお救いください。 *
あなたの愛と共に歩めるよう助けてください。

*) 自分の性格の問題点と良い点を発見し、記録し、進歩があったかどうか、意識的に管理するというやり方が有用です。具体的な進め方としては幾つかの方法があります。

 1. 人生の困難な問題に直接取り組みます。前向きな意図を持つこと。イエスもまた、自分自身の問題をまず見つめるように説いています(マタイ7:1-5)。イスラム教ではこれは、「偉大なジハッド」、「聖戦」とされ、外的な紛争のいずれよりも困難でしかも重要であるとされます。この方法により、多くの対立を前向きに解決できるでしょう。
 2. 他者と直接和解します。

 3. 他者と直接、出来る限り許しあいます。あるいは、祈り、問題を神に委ねてなんとかしてもらい、心の中で相手を許します。イエスはまた「最後の一レプタまでも支払ってしまうまでは」と言っています。(ルカ12:59、及び下記5を参照).

 4. 他に方法がない場合、自分を害した人ではなく、その他の人のために良い行いをすることができます。人が、例えば、公共の利益のために働くとき、神は、多くのことをきれいにしておいてくれます。(過去に起きたことをきれいにするということと、自発的に他者を助ける行為を行うということの間に境はなく、流れるようにつながっています。「ひとりが蒔き、ひとりが刈る」(ヨハネ書4:37)という通りです。)これはキリストの次の言葉でも確認されています。「このように、あなたがたはそ実で彼らを見分ける。わたしに向かって『主よ、主よ』言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入るのである。」(マタイ7:20-21

 5. 「わたしの名によって神に祈りなさい。」というとき、キリストは、人の生における更なる成長のための赦しと慈悲を表しています。純粋に人間のレベルだけの倫理観では与えられない、重要な助けを意味しています。運命は、機械的必然として捉えず、神に導かれた結果となります。すべてが神の高い知恵によって、その人と他者にとって最良の方法で解決され、成長させられます。

この注記は、英語ページの「倫理的価値観の基本」からの抜粋です。

**) ここに他者を含めて「私達を」としてもよいでしょう。

 

有史以前から多くの文化圏で大規模に同様な発展があった

子供から大人なる成長過程は上に述べましたが、人類の文化も同様の意識の成長過程を辿りました。ひとつには新しい能力(以前より自由な意思、感性、思考)を獲得しました。またもうひとつは、「創造物」全体に対して以前持っていた親近感を失い、そのために問題が起きています。(ジャン・ゲブサー著 Ursprung und Gegenwart[『起源と現在』の意。ドイツ語]を参照ください。)「古代」意識に始まり、「魔術的」意識、「神話的」意識と移行し、知的意識に至ります。その後は、より統合された共通意識への成長が可能です。各地の文化圏に秀逸な人材が現れ、この過程が実を結ぶように助けました。この過程は多くの障害にもかかわらず進行しましたが、前にも述べたように古くからの能力を犠牲にしなければなりませんでした。今後の人類の歩みの中で私達は人類存続のために、小さなあるいは大きな進化のステップをマスターしていくという課題を引き受けなければなりません4。この可能性はすでに過去2000年ほどの間に見えていたものなのです。この過程は既得の人類の能力、例えば知能などを犠牲にすることは要求しません。もし、充分な数の個人がより全人的な共通意識を身に付け、神的な起源とのつながりを新たにすることができれば、「天」の助けも借りて、終末の天変地災が迫り来る前に、人類の歴史を方向転換することができるでしょう。平和運動などの世俗の活動家も、これに関連しています。善意のすべての人がこの「一大叙事詩」の中で一役買っているのです。確立された宗教学派に所属する人でも、多くの人が明らかに求道中です。多少の「中庸さ」があるとしても、彼らは未来に向かって進み、過去を祓い落とす手助けをしています。その人の目的が人類「救済」であるか、意識の進歩であるかは問題ではありません。旧来の「プログラム」がどこへ向かってしまうかが分かった以上、現在の視野での価値観は、明らかに変革されなければなりません。すべての行いが全体の一部であり、よい行いは必ず世界を救う働きをするのです。

4) 私達は、ヘルベルト・グルールの最新書 Himmelfahrt ins Nichts (『無への昇天』の意、ドイツ語)に示されたような悲観的姿勢に同意することはできません。なぜなら、私達が体験することができ、私達にとってたった一つのチャンスである、成長と力の重要な源、即ち神という要素を、彼は考慮に入れていないからです。

生死に関する決定はあなたにお任せするように、人々を導いてください。*
あなたの創造物を助けるために働く人々を助けてください。
あなたが約束された新たな時代に、この世界が入ることができるように、助けてください。**

*) ここで、具体的な祈りの内容を唱えるか、心の中で黙祷してもよいでしょう。例えば「武力対立が広がらないように助けてください」「武力対立の原因を取り除くための問題解決を助けてください」「善意の宗教者の間で平和的対話が始められるように助けてください」などです。
**) ルカ11:2、ルカ21:31、黙示録 11:16:神に任せれば、神は愛を行き渡らせてくれます。

 

小さな規模で、あるいは、大々的に、神に「帰ること」はいつでもできるのです。 

 

ヨハネによる福音書 16:12-13: わたしには、あなたがたに言うべきことがまだ多くあるが、あなたがたは今はそれに堪えられない。けれども真理の御霊が来る時には、あなたがたをあらゆる真理に導いてくれるであろう。それは自分から語るのではなく、その聞くところを語り、きたるべき事をあなたがたに知らせるであろう。

 

キリストの道

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19912014 年製作。インターネット上初版公開日は 2001 131日でした。これは日本語使用者のための Ways of Christ, …の特別抄訳版です。(2003-02-11今後更新されることがあります。)

執筆者:キリストの道プロジェクト (Christuswege/ Ways of Christ™).

本インターネット版出版元:ヘルムート・ジーグラー

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